伐採の季節がやってきた。薄くはない壁をいくつもへだてて外界と繋がっているこの部屋のなかだが、それでもはっきりと鳥の鳴き声や、虫の鳴き声が聞こえてくる。時計はあるがカレンダーはないこの部屋の中にいてもはっきりと、季節の巡りは感じ取れるものなのだ。
ブザーが鳴る前後に僕らは起床して、扉の前に姿勢を作って立ち、係員が錠を外しにやってくるのを待つ。はしっこの部屋から順々にだからしばらく待つことになる。例外的に僕の部屋だけは数日前から施錠されていなかったのだが、ルーティーンを変えようという思いはなく、僕は自分の番になるまで扉の前で動かずに待っていた。そしてついにやってきた係員も僕の部屋の前で、存在しない錠に鍵を差し込んで取り外すようなそぶりをして、……いや特にあの手の動きにそんなに意味はなく、ただ係員も毎朝のルーティーンを同じテンポで保つために、ほかの扉の前と同じだけの時間を消費しようとしてでたらめに手を動かしただけかもしれない。……とにかく、係員は僕の順番を終え、僕の目の前には開けることのできる扉が残された。それからほどなくして最後の部屋の開錠が終わり、それを合図には僕たちは部屋を出て、列のような列ではないようなものを作りながら、廊下を流れていく。
まずは窓口で、労働許可証を見せおにぎりを受け取った。歌詞のような歌詞ではないようなものを歌いながら、となりに顔なじみがやってくる。彼の手には僕と同じようにおにぎりとカードが収まっていて、「輪廻は試験運転中なんだ」顔なじみはそう僕に話しかけてくる。歌いかけてきているようでもあるが…。とにかく相手は僕だ。「ここから出られる日もそう遠くはないんだぜ。正式に」この顔なじみは、なぜか僕のことを気に入っているのだ。同じレベルで話ができる話し相手だと思っている。顔なじみは眼帯をずらして、潰れたまま治って歪んだ皮膚になった右目で僕を見つめた。いちど脱獄に失敗してこの怪我を負ってから、彼は不思議な芸術的感性を発揮するようになった。
僕らはホールに移動して、前後左右おたがいに手を伸ばしても触れないくらいの距離を開けて、等間隔に並ぶ。全体として縦長の長方形なのか、横長の長方形なのか、それとも正方形なのか、中にいてはわからないくらい大きな隊列だ。施設の入居者全員が集まるとそれくらいになる。ホールには奥行きの少ないささやかな舞台がついていて、そこに監督者がのぼった。伐採の季節がやってきて最初の朝会では、監督者によるすこし時間を取った全体の士気を上げるためのスピーチがあるのだ。ホールの空気は静まり返っていて、一人だけの声が響いた。それを聞いているとまるで僕らは、これから敵地へ行こうとする兵隊の集団のようなものなのだという崇高な気分になる。本当は僕らはただの住み込みの労働者で、壇上の監督者だって数年前にはただ言葉を聞くだけの立場のひとりだったのだが。
ホールを出ると、そのそばにはいくつもの送迎車が横付けされている。整理番号は労働許可証のどこかに書かれているはずだが、それとは関係なく僕らはその場にいた者どうしで乗り合わせて伐採の場所へ運ばれていく。ここでする仕事はいつもは敷地内にあるのだが、伐採の季節だけは別で、毎日森まで連れていかれてそこで仕事をするのだ。
森と言っても僕らの故郷のように鬱蒼としているものではない。ちょうど顔見知りでない人間の集団がこれくらい間を開けて立っていると心地が良いくらいに散らばって生えている。枝は小ぶりで、どことなく疎としている。立っていられないほど不健康ではないが、これがこの種の本当の姿だと思えないアンバランスさだ。それを僕たちは、ひとり一木ずつと対象を決め、誰の力も借りず独力で切り倒していく。作業には時間がかかる。もともと、ひとりでというのは効率のいいやり方ではないのだ。それを誰もがわかっているが協力はしないというのがここでの伐採の仕事のルールだった。
ひとつのことに集中して仕事をしていると、ついに目の前の木が倒れる瞬間が僕らにやってくる。そのときには大声をあげて、「自分が取り組んできた木が倒れる」ことを周囲のみなに知らせなければならない。特に、倒れる木の方向へは念入りに声をあげないといけない。森はまばらなため、倒れてくる木に直撃して死んだり、大けがを折ったりする可能性はとても低いが、決して無いことではないからだ。
僕も、自分の仕事を終えるまでに何本か、声掛けを聞きその後に大きな音をたてて木が倒れるのを手を止めながら見た。集中が義務付けられているこの仕事の中にあって、誰かが木を切り倒す瞬間というのは貴重な休息の時間でもあるのだ。一本はまさに僕の目の前に倒れてきた。僕はいつの間にか他人の制作物に囲まれていたが、なんとか自分のものも周りに大きく遅れることなく切り倒し、倒木と切り株だらけになっていたその区域を離れた。僕が別の場所で別の木を見定めるあいだにも、大きな声と木が倒れる轟音が元居たほうから聞こえてきた。僕は伐採の仕事においてとくべつ優れているわけではなかったが、なんとかもっとも劣っている何名かのなかには入らずに済みそうだった。そして、昼の休憩時間がやってきた。
お昼を知らせるサイレンが鳴り、僕らは作業を止めてそれぞれの最短距離を歩いて、森のすぐそばに仮に建設されたテント設備まで向かっていった。そこが食堂兼休憩所となるのだ。しかし僕はテントには入らず、配給をもって外に出て、一番近くにあった切り株に座った。切り株の根元からは、倒木が太陽のある方向を指して長く伸びていた。それを見ながら食事を進めていると、ひとりの男が声をかけてきた。彼が声をかけるのは早すぎた。向かってくる彼と僕との距離は、声が届いて僕に気づかせるには十分だったが、おたがいの姿を認め会話を始めるにはまだまだ全然遠かったのだ。彼がきまずい沈黙の時間を近づいてくる間に、僕は思い出した。彼は旧友だった。今はほとんど見かけても声や視線さえ交わすことはなくなってしまったが、昔は友人だったのだ。
「やあ」
「ああ」
どちらが先ともなく、十分な距離に近づいたと感じて、会話はこのようにあいまいに始まった。しかし、彼がポケットから取り出した包みとともに本題を始めたのは、すぐのことだった。
「君はさ…、最近なにかを探していないか? 失くしたものがあるとか。絶対に必要なものじゃないけれど、なくても困るわけじゃないけれど、なんだか不格好だなと思うようなものだとか」
僕には彼がなにを言っているのかよくわからなかった。彼は言った。
「最近こんなものを見つけたんだ」
彼は自分の手の中で、さきほど取り出した包みを開いた。中には錠が入っていた。見慣れた形状だったが、それが自分の失くしたものだとか、探しているもののようには思えなかった。
「たまたま見つけたんだよ」
そう言ったが彼は、その直後になにかを決心したような表情になり、取り消した。
「いや。おれが盗んだんだ」
「盗んだ?」
「君からね」
そう言われて気づいた。たしかに数日前から施錠されていなかった、僕の扉にかかっていた鍵なのかもしれない。
「どうやって盗むんだ?」
「簡単だよ。夜全員が寝静まったころ、係員の目を盗めばいい」
「なんで盗むなんてことを?」
「それはお前が、……。やっぱりいい。なんでもない」
彼は気分を害したような表情をした。それが僕には不可解だった。彼が自分の都合で盗み、それを返しに来たというだけのことで、たとえ今はもう友達じゃない間柄だというマイナスポイントはあれど、彼が不機嫌になるようなことはこの会話の中でなにも起きなかったと感じていたからだ。彼は僕の手に錠を押し付けた。こんなものは不必要だとやはり僕も心のどこかで感じていて、受け取りを断ろうとしたが(だって、彼が盗んだからにはもうこれは彼のものなのだ。彼が自分の扉の前に見舞いの錠をつければいい)、しかし、それがさらに彼の怒りを誘うのではないかという気もして、寸前でやめておいた。
「ありがとう助かったよ」
「助かってなんかない」
「僕が助かったという意味だよ」
「お前は、助かってなんかないよ」
しかし、言われてみれば逆に「助かった」ような気もした。これで朝の時間に空いている扉の前で係員と一緒に気まずい思いをすることはなくなるのだ。係員も自分の仕事に集中できるし、僕も僕で、鍵が開くのを楽しみに待つこともできる。顔なじみが僕のことを特別視することもなくなるかもしれない。
彼はどこかに去っていった。やはり彼も、僕のことをもう友人だとは思っていないだろう。お昼の終わりを知らせるサイレンが鳴った。僕は配給の包み紙を捨て、午後の仕事の準備に取り掛かった。