「ポルノの自己規制」というのは公にも私的にも意外とされていないけど面白い話なのではないだろうか

 

 ポルノグラフィについてというのはインターネットで人気の話題であり、毎日どこかで誰かたちが議論を交わし、相互理解が得られたり得られなかったりしている。そんななかで最近ちょっと思ったのですが、「ポルノの自己規制」というのは意外とだれも話題にしていないのではないだろうか。

 

 ポルノについての話を2×2に分類してみる。ひとつめの2が「世間に流通しているポルノについて」と「自分が楽しんでいるポルノについて」で、もうひとつの2が「それが趣味としてどうなのか」ということと「それが倫理的にどうなのか」である。

 

 「世間に流通しているポルノについて」「それが趣味としてどうなのか」はアイドルとかセクシータレントとか漫画とかについて、どれどれがいいよね、とか逆にこれはな~、とかのお話。「世間に流通しているポルノについて」「それが倫理的にどうなのか」というのは、市井に広告やコンテンツとして流通するものについてどの程度の性的表現まで許容できるのかというもの。「自分が楽しんでいるポルノについて」「それが趣味としてどうなのか」というのは、実際に趣味に基づいてプライベート空間でポルノを選択するときに現れ、ある種の気の置けない関係性ならできるor匿名の場で語る性癖開示で語りとして人の目にふれることがある。

 

 ただ2×2ののこりひとつ、「自分が楽しんでいるポルノについて」「それが倫理的にどうなのか」はインターネットでもあまり見ない話題だし、ひょっとしたらポルノの消費行動のなかでも意識の裏側にいっちゃったりしていることなのではないかと思っています。

 つまり、公の場でこれくらいはOKだろ、これはアウトだろという、趣味に「そそる」/「そそららない」じゃなくて倫理的にOK/アウトという基準を、プライベートなポルノ消費でもおそらく我々は持っているはずなのですが、それを自覚したり話題にすることはほとんどないのではないかということである。

 

 ひょっとしたらその種の話をあえてする場合には2×2のどちらかが反転される。自分が私的に規制しているポルノについては、「公でこれが許されるかどうか」という公衆道徳化する視点か、「自分としてはこの種の表現は好まない」と趣味の話に帰着する視点かにずらして語りがちではあるんじゃないか。

 

 でも、ストレートに「ポルノの『自己』規制」を意識したり、語ったりする機会が増えてもいいのではないか。

 

 これは単に、性癖の話をする程度には親しいor匿名の場で、個人がなにを道徳と見てどこに線を引いているのかを知れるとうれしい・話題として面白いのではないかという個人的な問題提起でもあるのですが、一方でポルノをめぐる倫理的討議に役に立つ視点を付け加えることによる公共的な意味もあるのではないかと思っている。

 公にそれがよしとされているかいないかとは独立に個人がその信念によって持っている各種ポルノに対する善悪の感覚と、ポルノの行政がもつべき公正、の違いについて集団的に感覚がはぐくまれるだろうし、公的なポルノの規制に対して「趣味」の足場から反撃するのではなく、「自律」をもって応答するという当然の対立関係が生まれて議論が建設的になるのではないでしょうか。