しかし、ウィリアム・ストーナーの眼前には、未来は輝かしく確かで、揺るぎないものとして横たわっていた。それは出来事や変化や見込みの連続体ではなく、探訪を待ち受けるひとつの領域だった。それは例えば、大学の立派な図書館であり、そこにはもしかすると新しい翼棟が増設されて、新しい本が加えられ、古い本が除かれるかもしれないが、その真の特性は本質的に変わらないだろう。それはまた、ここまで身を奉じてきた学問の府、いまだ完全には理解しきれないこの教育機関の内に見出されるものだった。その未来の中で変化していく自分を思い描いてみたが、じつは未来そのものが、変化の客体というよりその手立てなのだと思えた。
という小説を読んでいました。公式の煽り文句がかなり印象的*1で、10年くらい前に僕をもそれを読んで非常に読みたいなと思ったのだけど、同時に「これを読むには俺は若すぎるかもな」という直感みたいなものがあって、寝かせておいた作品である。
今回そろそろかな…と思って手に取ってみたのですが、本当にその通りだった。とても面白い。物語が面白いとか、着眼点がすごいとか、小説の誉め言葉はいろいろありますが、この作品にはどれも当てはまらず、「小説が面白い」というしかない。
色を付けて読むこともできる*2と思いますが、でもこの小説のいちばんデザインされた読まれかたは、書いてあることをそのまま読んでいくことでしょう。ひとりの禅的な感性を持った男が、人生を過ごしていき、その中でいろいろ起き、それを彼の視点から描いていくのですがそれだけで極上の文学になっている。
本当はここになにかをつけ足していくことが小説のふつうの戦略な気がするんですよ。彼にはこう見えていた他者は本当はどうだったのか? 作中の交わりや語り手を入れ替えるといった文学的工夫をもって描いたり、あるいはその彼の人生を哲学と見立ててほかの考え方と作中で交錯させたり、もしくは歴史的なイベントをもうひとつの主題に立ててみたりとか、そうでなくてもなにかひとつ焦点となるような出来事を彼の人生の起伏のなかに見出したりとか、なにもない空所を技巧と創作で埋め尽くそうと才気を発揮するとか。
でもそれを全くしないことでこの小説は、我々が面している人生の、……何とも言えない空白とか寂しさとか、でもそれと同じだけあるささやかな喜びとか、それらをすべて合算したときに全然理解も予測もできないのだが、逃れることもできず、ただ包まれている肌触り、テクスチャの実感というか、そういうのを描くことに成功している*3。
いままで小説を読んでいてこんな気持ちになったことはないが、読み終わったときには、これが小説のできることの範疇に収まっていることを昔から知っていたような気持ちになる。
万人におすすめできるタイプの小説ではないです。ギラギラとした極彩色の魂を持っている人には全然刺さらない気がする。なので、これを読んでつまらないという人をちょっとうらやましくも思う。
逆に、最近見える世界から色が無くなってきたな…となってきた人には、良く刺さると思います。もうすこし経って、「まあいいか。色なんてなくても」と腑に落ちてくるタイミングがさらに読みごろかもしれない。
ふとした折々に、自分の人生は生きるに値するものだろうか、値したことがあっただろうか、と自問した。すべての人間が一度は遭遇する問いだと思えたが、その問いの普遍的な力を感じ取れる者が果たしてどれくらいいるのか。
どこを向いても囲いのない牢獄のように見える広く明るい世界へ。
あとがきにもすごいことが書かれているので、ふだん読んだり読まなかったりするよという人はあとがきも読んでみるといいと思います。おすすめです。