共感そして反省(暫定的結論つきの)

 

 というお話を見た。個人的には、自分が同様のシチュエーションにあって、辛くて誰かの助けが欲しいとき、この話での妻の理想側の対応をされるとかなりしんどくて、夫側の対応をされると非常に安心する。

 

 こういう話を、「共感と客観性」というくくりでまとめることもあるけど、それは物事の一面で、「共感と別の種類の共感」でもあると切に思うんですよね。別の種類の共感をする側の人間としては。

 

 そして、夫側の対応を「客観性」ではなく「もうひとつの共感」として語るナラティヴが本当にすくない。そしてナラティヴが流通してなさ過ぎて、なぜ「もうひとつの共感」が共感なのか、なぜこの接し方をされると心が楽になるのかを説明するところから始めないといけない。*1

 

 ……という問題意識が前提にあるので、いまのところ結論としては問題ないと思っているのですが、でもたまにする反省がある。

 

 フィクション、作り話を書くことがあるのですが、そのなかでこの登場人物は・この関係性では「あっちのほうの共感の方法」をとるだろうから、そのように書かなければな…、と思いつつ結局は自分が慣れ親しんでいる「こっちのほうの共感」をしたことにしてそう描写してしまう、ということがけっこうあるのである。

 

 これは制作についての個人的な方針には反するので、どこかでやめたほうがいい癖なのだけど、でも、ポジティブに「強さ」だったり、ネガティブに「冷たさ」だったりとして表象されがちな「こっちの共感」だって、深みと温かさ、そして思いやりのある、立派な対人行動なのですよということが描かれているものを1個でも増やしたいなと思ってしまうのです。

 

 これまでそうしてきたものに、それが伝えられるようなパワーが多少でもこもっていたらいいのだけど。

*1:親密圏では後者の対応のほうがマジョリティで正しいとされるので、人と親しくなればなるほどみんなそれをするようになってきて(いままで夫側をしてくれた人もそうなる)付き合いがしんどくなる。辛いことは隠してつきあうしかなくなる。