僕は大学時代、とった単位と同じくらいの単位を落としていたスーパーダメダメ学生だったのだが、逆に言えば標準的な学生の最大2倍の授業を受けてきたことになる*1*2。
今回はその分厚いキャリアの中でも、特に印象に残った大学時代の講義ひとつについて振り返って書き残しておきたい。
選択必修ではない「歴史」の授業で、「ナチスドイツ」ワンテーマについて取り扱ったものだった。といっても、ヒトラーが突撃隊や親衛隊をどうこうして政権を取ったとか、戦争がどういう戦況で進んだか、といったことを教わるものではなかった。
代わりにメインテーマとなったのは、ナチス政権下でふつうの人々がどのように過ごしていたか、である。
成立してしまった強力な権力を前に、一般市民はどうしたのか。それがさまざまな歴史上の細やかなトピックを通じて、オムニバス形式で語られる。ある回では前線に送られた兵士が、故郷にあてた郵便でどのようなことを書いたのか、そしてどのようなことを書くと検閲されて届かなかったのか。
別の回では、国内にユダヤ系住民を入所させる「絶滅収容所」があることを、一般市民は知っていたのか。それをどのように受け止めていたのか。インテリ層と非インテリ層では受け止め方に違いがあったのか。
全13回の授業のほとんどの部分では、いちどそうなってしまった歴史の流れというのは簡単には覆らず、ふつうの人々はどれだけ不本意でも自分の身が危険でも人としておかしいことだとわかっていても、その流れに従うしかないものである*3、といったことが示されていたように思う。
ただ一方で、「近所にいるユダヤ人を通報してください」という政府の密告政策を逆手にとって、気に入らない近隣住民(ユダヤ系かどうかは知らない)を密告、まんまと自分の利益を得た一般市民の話だったり、ドイツ軍将校からそのへんの一般の農夫まで、さまざまな社会階層のひとが「どうにか自分の手で歴史の流れを変えなければいけない」と決意して実行したヒトラー暗殺計画*4の話だったりも語られた。
まるで、歴史の流れは、ただ流されるのではなくうまく利用したり、時にはたった一人の力で逆らうことができるものでもある、というように。
「私たちがたどってきた歴史を見る限り、一度全体として作られてしまった流れを変えるのは一般人にはほぼ不可能である。しかし同時に、その抗いがたい流れの中で、一般人はほんのちょっとだけ自分の意志で行動する余地がある」というようなことをまとめとして、授業は終わった気がする。
そしてその日以降、上の「」で述べたようなことは、僕が自分の人生を生きていくにあたって信じる、一番根本的な原則のうちのひとつになっているように思う。
大きな流れを把握すること、自分を取り巻くほとんどの前提条件が自分の力ではどうにもならないとあきらめること、その中で自分に残された行動可能性が何なのかを考えること、そしてそれをするかどうか決めること。
個人的にいまでも、生きていくうえでしていることのほとんどは、この4つのうちのどれかなのである。