筋を真面目に受け取ることができるフィクションかどうか

 

 最近フィクション作品を自分のなかで評価するにあたって重要な基準になってきているのが「筋を真面目に受け取ることができるフィクションかどうか」である。「筋を真面目に受け取ることができる」というのは、ほかの意味あいもある言葉「リアリティがある」「感情移入できる」「シリアス」「写実的」とかと指し示している範囲がちょっと似ているかもしれない。

 

 フィクションのなかにあるお話の筋、――登場人物たちの葛藤や、追い込まれたピンチ、といった出来事ひとつひとつが真に受けれるかどうか、真面目に受け取ったときにいちばんその作品の質が高くなるような形で作出されているか、がけっこう個人的に大事になってきている。

 

 もちろん、筋を真面目に受け取ることを求めていないフィクション作品もけっこうあって、それはストーリーをたんに作品に一体性を与える綴じ紐みたいなものとして使っていたり、やりたいシーンや演出、キャラの置き場所として使っていたりする。

 あるいは真に受けるべきストーリーがないことそのものを作品の主題のコンポーネントとしていたり、ストーリーそのものはあるもののそこに自信がなく、ずっと「なんちゃって~。ストーリー以外が見どころだから」と言いながらストーリーを進めている作品とかもある。

 

 これまでそういった「ストーリーを真に受けるべきではない作品」に関しては、ここの演出がどうとか、俳優の演技がどうとかいうところだけに注目して、物語に関してはとくに見ない、プラマイ0で考えていたのだけど、ここをちょっと一律で、個人のなかで減点してもいいような気分になってきている。

 同時に、友達の打ち明け話を聞いているような気分で「まじめに受け取らざるを得ない」気分にさせてくれる筋がある作品は、たとえ演出その他が稚拙でもそれだけで推していっていいんじゃないか、と思ってきつつある。

 

 態度を変えた理由としては、世のなかには音とか光とか、動きとか、面白いものがたくさんあるけれど、個人的にいちばん好きなのがストーリーだということ。ストーリーにとって、真実と区別がつかない形式で語られているというのが本質的な性質である(と僕は思っている)ということが大きい。

 

 それに、商業的な話になるのですが、話の面白さってあんまり凝っても釣果が大きくなく、なんかおもしろいフィクションを製作しようと思ったら、いいシーンとかキャラとか下りとかから逆算して、それを収めるちょうどいい当たりさわりのないお話ってこんなもんか、って感じで作るほうが成果が出やすい。こうやって筋を作ると、けっこう真に受けづらいストーリーに最終的にはなってきがちである。

 なので、ふつうにポピュラー作品多めに見ていると、筋を真に受けるべきではない作品ばかり見ることになっていて、これが結構だるいな……、と最近思いはじめたというのも大きい。語られていることを真面目に受け取らずに、作品のほかの部分の良さに注目する、ってけっこう注意力を使って、大変じゃないですか。

 

 いまはもう、何も考えずに見れる「筋を真面目に受け取ることができるフィクション」が見たい。何も考えずに見れる「筋を真面目に受け取ることができるフィクション」が見たい。