ひとこわ

 

 それなりに長いあいだ間近で見てきたので、自分という人間がどんな人間なのか、すくなくとも世界にいるだれよりも理解しているつもりである。

 

 そういう立場から自信をもって言わせてもらうと、やっぱり僕は、びっくりするくらいひとのことを恐れている。他人がたくさんいるということこそが、僕の人生を緊張感あふれるものにしている。

 人が怒ったり、失望したり、教え諭すような雰囲気になったり、不機嫌になったり逆に機嫌が良くなったりすることで僕に伝えてくる「○○をしなさい」あるいは「○○をしてはいけない」というメッセージが、どうしてか僕のいちばん内側では絶対の命令のように響くのである。

 

 命令として受け取っているのなら従えばいいのに、とも思うが、ただ僕はどうしても「命令に従う」ということが非常に苦手で、正直他人の言うことを聞いたことは一度もないと思う。なんかいいなりにってなれないんですよね~……。*1

 なので、これまでの人生はずっと、「命令に従いたくない自分」と「降りかかってくる他人からの命令」とのバトルであった。バトルが長引くことがあるたび、心の内側や外側にかなり傷を負ったものである。

 

 昔よりだいぶ人生が生きやすくなってきているのも、年を取るごとに増えていく自由のおかげで命令っぽい他人から逃げるのが簡単になってきたからだし、就職をぎりぎりまで渋ったのも、他人と緊密に連絡を取らざるをえない社会の仕組みが嫌だったからだ。

 基本的に気さくで人好きがする性格なのは、おちゃらけた関係性を先に築いちゃうことで、怒ったり怒られたりすることをその関係のなかではなんかそぐわないものにするためで、べつにあなたと仲良くなりたいからではない。人を笑わせるのが好きなのは、笑っている間は、その人は不機嫌になったり失望したりすることができず、当座の安全が保障されるからだ。

 レヴィナスの哲学が好きなのは、他人こそが僕にとってすべてのルールの源泉ように思えたからだし、たいていのときにうっすら希死念慮があるのは、結局のところそれがいちばん簡単な他人問題の解決策だからである。

 

 自分が、ただ居るだけで他人の関心を引くような魅力的な人間ではないことが、子供のころはちょっと不満だったが、いまとなってはただただありがたい。

 

 それでも他人がたくさんいる人生を生きるのは、かなり疲れるのだけど、これまでのところはうまくやれている。生きてて良かったなと思えるような楽しいこともなんどかあった。それに、いつでも出て行けるドアがあるのも心強い。

 

 これを読んでいるなかに、おなじようにひとが怖い方がいれば、ぜひお茶でも……、は怖いので絶対に行きませんが、せめておたがい同士だけは、おたがい存在しないものとして、ずっと無視しあって生きていきましょうね。

 

 (スケジュールの関係で4/1に公開されますが、ここに書いた内容に一切嘘はないです)

*1:なので子供のころは「はだしのゲン」が怖くて読めなかった。ゲンの父ちゃんが官憲の言うことを聞かずにボコボコにされてるシーンなどを見て、絶対俺将来おなじようにボコられるじゃん…、と思ってキツかった。