推しcpのうち、バスの揺れ方で人生の意味が解かっちゃうほう

 

 スピッツの曲、「運命の人」の歌い出しになっている「バスの揺れ方で人生の意味が解かった日曜日」というワンフレーズはとても印象的で、スピッツの歌詞が話題になるときなどに例として引かれているのをよく見かける。

 僕もそうなのだけど、スピッツの熱心なファンじゃないよ、っていうひとでも、このフレーズは知っている、ということもあるのではないでしょうか。

 

バスの揺れ方で人生の意味が解かった日曜日

 意味をひとつに決めて読んでしまうことのなかなか難しい、詩的で謎めいたフレーズだ。けど、個人的には、人生を生きていくうえでなぜかやってくる、「啓示」の瞬間をとらえたものではないかとなかば確信している。

 

 「仕事を辞めて世界一周しよう」とか、逆に「これまでの無軌道な生き方を辞めて地に足をつけよう」とか、人生に関する重大な決断をするとき、というか、ふっと生き方がべつの方向に修正されるとき、というのは、ふだんの生活のなかでは、表面ではなくむしろノイズのなかにあって、それをなにか重大な真実の表れとして読み解いたとき、ひとはなにかから足を洗ったり、逆に深くなにかに帰依したりする。

 

 こういう「啓示」を敏感に感じ取り、それに従うことに躊躇がない「啓示耐性の低い」タイプの人間と、そうではないタイプの人間がいて、僕はどちらかというと圧倒的な前者なので、このフレーズにかなり「解かり」を感じるのである。

 

バスの揺れ方で人生の意味が解かった日曜日

でもさ 君は運命の人だから 強く手を握るよ

 しかし、スピッツの「運命の人」の歌詞をちょっと聞いてみると、じつはその「解かっちゃう」感じを必ずしも肯定していない。これは初見のときはちょっと驚きだった。

 啓示をうけとった日曜日のバスのあと、そのままこの人生をおもいきり変えてしまってもいいはずなのに、詞はそのようには進まない。「でもさ」というなにげない逆接の接続詞のあと、「解かってしまった人生の意味」ではなく、「いま過ごしている君と暮らす日常」をたたえるような美しいフレーズがなんども飛び出す。

 

 啓示の世界、帰依の世界、正しい意味の世界が、一瞬この曲の主人公の前には開けるんだけど、……そうではない暫定的な日常世界のほうを愛していて、そちらのほうを選ぶ。

 ここにいながら、日々を送るなかのさりげない努力をくりかえすことで、一瞬だけ開けた啓示の世界の神々しさに近い、……近くはないかもしれないけれど、なんらかのある意味ではそれに匹敵する、素晴らしいものを手に入れることができる。

 そういった、心地のいい確信が曲には満ちている。

 

 だから、「運命の人」っていうのも、文字通りの意味ではなく使われている言葉である。この人生のなかで出会った、偶然の、次にこの人生を生きても好きになるかはよくわからないようなあなたを、けれどかけがえのないものだと自力で思って強く手を握る。

 

バスの揺れ方で人生の意味が解かった日曜日

 いちばん印象に残るフレーズが、じつは微妙に仮想敵になっているというちょっと面白い歌だなと思いました。しかも、やっぱり個人的には、「啓示」側のありかたに抱いている憧れを捨てきれないところもあり……。

 

 好きな曲で、とてもいい曲だと思うのだけど、聞くたびにちょっと切ないというか疎外感を感じるのの個人的な理由は、そういうところにあるのかもしれないなと思いました。