ラディカル秘密主義

 

「もしすべてを明かしたら、すべての感覚を明かして理解を求めたら、自分が自分であることに関する、何か大切なものをなくしてしまう。他の人が知らない何かを君は知ってなきゃいけない。君について誰も知らないことのおかげで、君は自分について知ることができるんだ」

ドン・デリーロ『ポイント・オメガ』

 もともと、僕はけっこうな秘密主義者で、自分にとって重要なことをほかの人に明かすことがほとんどない。べつにとくに秘密にしようとは思っていないことでも、言わないと駄目な理由とか言ったほうがいい理由がないかぎり言わないし、聞かれた場合でもそのとき思いついた適当なことを言って、作り話を楽しむことのほうが多い。

 

 思春期のころはその傾向が顕著で、自分以外に自分の秘密を渡してしまったら、長期的には自分が不利になるものだと思い込んでいた。周囲の人とうまくやれるようになってからも、なにか自然と自分にまつわることを言おうとしたときにちょっと考えていったん決裁を仰いでしまうくせは残った。僕の上層部はくせが強いので、現場の提案にはまずゴーサインを出さない。

 しだいに、自分が秘密を守るのは秘密になにかとてつもない価値があるから、ほかの誰も知らない自分についての秘密こそが自分を構成している純粋な部分だと思うようになっていった。秘密を守ることが自分でいることなのだ。

 

 自己目的化した秘密主義は、20歳を過ぎるころにはさらに先鋭化していく。このあたりで、秘密を守ることに固執するのではなく、逆に、タイミングさえあっていて、言うことで目の前の相手に負荷をかけないようなシチュエーションであれば、秘密はどんどんあえて言っていくようになった。

 

 かといってもともと秘密主義者であったという長年の慣性は体にしみついていて、いろいろ言っちゃった日の翌朝などは体がだるくて動かなくなるくらい後悔するものだけど、何回か絶望の二度寝をくりかえすうちに、すこしずつポジティブな気持ちが戻ってくる。「まあ、あれくらいなら言っちゃっても(恥ずかしくてあいつとは二度と会いたくないけど)最悪許せるか」と。

 

 そしてそのとき、不思議なことに、自分の内面について明かしてしまうたびに自分の内面には、さらにべつの秘密があったことに気づくのである。その日のうちに気づくことがあれば、1週間くらいかかることもある。けれど、いままでは手持ちの秘密に気を取られて気づかなかったけれど、そういえばこういう秘密もあったんだった、とわかるのである。

 秘密は、守るだけではなく適度に明かしてしまったほうが、自分の内面を掘り進め、自分について詳しくなる役に立つのだ。

 

 他人についての秘密や他人と共有している秘密は、まあ守ったほうがいいのだけれど、自分についての秘密は適度に温存しつつ機をみて捌いていくのもよい。新しい秘密は、すぐに拾うことができる。

 そう思いいたってからいまにいたるまで、秘密に対するスタンスはそんなに変わっていない。満足している。

 

 しかし、そう考えて思うのだけど、誰もが誰も、自分の秘密を自分でコントロールできているわけではない。なんらかの外的要因によって秘密を捨てられない状態に追い込まれているひとというのは、たくさんいるわけである。

 

 捨てられない秘密がある限り、ひょっとしたら、そのひとは自分の内側にある別の側面に気づくことができない状態になるかもしれない。その秘密だけが自分のアイデンティティだと思い込んで、生活や行動のすべてがその秘密に縛られてしまう、といったことがあるだろう。

 

 そうなってしまう、というのが、いろいろな抑圧の悪いところのひとつである、とも言えるのではないでしょうか。