だいたいやっていた~千葉雅也『勉強の哲学』~

 

  『勉強の哲学』という本を読んでいた。東大・京大で今一番読まれている本らしい。

 

 勉強、というのを「なんとなくなあなあでその場に合わせているものの考えかたとか言い表しかたから脱却して、新しいものの考えかたとか言い表しかたを身につけること」とみなして、勉強をするというのはどういうことなのか、そういう意味での勉強をするときにはどうすればいいのか、ということが書かれた本である。

 

 千葉雅也さんというこの本の著者についてはそれなりに前提知識を持っていて、それから判断するにたぶんある程度はそうなるだろうなとは思っていたのだけど、実際には(ある一部分を除き)ここに書かれていることは僕はすでにだいたいやっていて、しかもそうしていることを自分のなかで意識しており、さらにそういうふうに勉強することがなぜ良いのか、に関してもこの本で書かれているのと大体同じような説明を自分で思いついていたので、読んで何か新しいことを得た、みたいなことはほぼまったくなかったのだけど、そういう読書の経験をすることはけっこうレアなので、それはちょっと楽しめた。

 

 ともかく、この勉強論は、現時点で、生活を変える可能性が気になっている人に向けられています。それは、何かモヤモヤした願望だったり、あるいは、不満や、疎外感のようなネガティブな形のこともあるでしょう。

 文体はビジネス書、一般書*1に寄せる形で書かれているのだけど、哲学の領域に由来のある専門用語は意味や使い方の説明はしつつもそのまま使われているので、本の中はとっつきやすそうだけど意外に読みにくそうな、あんまり類がない不思議な空間になっている。

 

 自分に偶然やってきたこだわり、というのが勉強をするうえで重要になってくる。なので、自分のそういったこだわりを列挙した欲望年表を作って、それを俯瞰して見ることで、勉強の足掛かりをつかまえよう。という主張がされるのだけど、それって僕にとってのこのブログが完全にそれなんですよね。

 ほんとうに、最後の最後の、「アウトライナーに執筆しながら考えよう」みたいな部分以外はマジでぜんぶやってる。珍しすぎる経験だ。

 

 僕が読んだのは図書館で借りた本なのだけど、最後のあとがきの部分に「若いんだから、昔の哲学者の研究をするのではなく、独自の思想・哲学を編み出してはどうか?」みたいな浅い書き込みがされていて、それが図書館員によって念入りに修正テープで消されている(けどちょっと判読できる程度には残っている)という滋味深い光景が見られた。

*1:『勉強の哲学』のなかでもこういうものですよ、と言及がある。