水は低きに流れ、俺は易きに流れる。(しかし…)

 

 「君にまったく期待していないわけではないのだから、もうすこし頑張ってみたらどう?」というような意味のことを上司に言われ、「そのとおりですね」というような意味のことを返すしかできなかった。

 

 もうまったくそのとおりで、いまの僕はぜんぜん働いていない。明文で求められることは一応毎月こなしているのだが、それにかかる時間はだいたい月30時間ほど。残った時間はずっとインターネットでなんらかの記事を見てすごしている。

 7月8月のころはそれなりに、自分の能力でできるかどうか微妙なライン、やっていてストレスを感じないぎりぎりくらいの量・質のことをしていたのだけど、なんか最近はそういう積極性が失われ、はるか易きに流されてしまっていた。

 

 しかし、安きに流れるのは僕が始まって以来つねのことであった。小学校のころのテストで答えを書くのが面倒だったときに0点を取ったし(幼心で想定していたよりもかなり激しく先生に怒られて泣いたので、もうそれきりにした)、義務教育時代を通して授業のノートは気が向いたときに取るという感じだった(40代の男の独身の先生に「こんなことをしていたらお前は将来落ちぶれていくよ」と怒られたけど、これはそんなに響かず、ノート取りをさぼる習慣はのこった)。

 

 マンガを読んでいても、「友情」や「努力」「勝利」はどれも僕にとっては違う世界の話だったけれど、「働くくらいなら食わぬ!」と言った「封神演義」の太公望と「目を開けるのも面倒くさい」と言ってつねに目が開いていない「アイシールド21」の重左武太くんにはとても感情移入して読んでいた。

 幼少時代に読んで知った、世界の偉人たちのうち、もちろん他者として尊敬できる人はたくさんいたのだけれど、自分もこの人のような生きかたがしたい、この人のような生き方を絶対にする!と思えたのは、シノペのディオゲネスたったひとりだった。

 

 ちょっと大人になって、「有能な怠け者は司令官に、有能な働き者は参謀にせよ。無能な怠け者は、連絡将校か下級兵士にすべし。無能な働き者は、すぐに銃殺刑に処せ」という言葉を聞いたときには、「最悪でも銃殺は免れてるから、能力を無理に磨く必要はないじゃん、ラッキー!」と思った。

 

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 家に帰りながら、上司に言われたことを考えた。これまでをふりかえって、やっぱり自分が怠惰であるということは動かないし、努力(努力ってなんだ?)でそれを覆せると思うほど楽観的でもない。若造にとっても人生は長かったし、怠惰との付き合いかたはそのなかで身につけてきた。怠けながら物事をこなす方法は意外とあるものだし、他の全員が動けなくなってしまい僕が働かなければどうしようもないときなどに努力を惜しまないくらいの甲斐性は幸い備わっていた。怠惰であることがつねに悪い悪だとは思わないし、そう信じるに足る根拠もいくつか見つけている。さまざまな個別の後悔、改善の義務がある汚点はあるが、全体として、こういうふうに生きているこの人生に満足している。

 

 しかし、家に帰りながら、それとは違うこともちょっと思った。最近つねに思っているのだけど、やっぱりひとりの人間は時間のなかではひとりの人間ではない。

 365日のうちだいたい330日くらいをシノペのディオゲネスになりたいと思って過ごしているひとがいるとして、のこり35日のうち、1日か2日くらいを、アレクサンドロス大王ペリクレスになりたいと思って過ごすこともあるだろう。

 

 さっきの、怠惰という結論を下したときよりももっと精密に、一日の単位でこれまでをふりかえると、僕はアレクサンドロス大王になりたかったし、カール・フリードリヒ・ガウスになりたかったし、ナイチンゲールモーツァルト洪秀全やラス・カサスもいいなと思っていた。

 

 そういう35日を、のこり330日とおなじくらい大事にして、これからも過ごしていこうと思う。それが、精密に、自分らしく生きるということなのだと思う。これからも頑張りましょうね。