文学的なゲームとゲームレビュー~読むものが無限にある 3~

 

 僕はゲームをほとんどしないタイプの人間で(ゲームをプレイするのに必要な問題解決能力やタスク実行能力がないのである)、Google Chromeの恐竜ジャンプゲームくらいしか最近はやってないのだけど、ゲームについて書かれた文章を読むのはけっこう好きである。

 ゲームについて書かれているというだけでけっこう好きだが、文章そのものが面白かったらさらに好きになる。

 

 AUTOMATONというゲームを扱った硬派なネットメディアがあり、そこに掲載されているSyohei Fujitaさんのゲームレビューやコラムが面白くて、夢中になってずっと読んでいた。

 

本作を端的に表せば、制御のアートだ。魅力的だが野放図な数学的膨大さはゲームシステムによって制御され、美しいが無秩序なグラフィックは現実世界でも通用する論理に基づいたインタラクションで制御される。

 Syohei Fujitaさんのゲームレビューやコラムが取りあげるのは、作家性だったり明確な芸術的コンセプトがあるようなゲームで、まずそういった創造的なゲームがこの世の中にあることやそのコンセプトが整理された明晰な文章で紹介されている、ということが非常に、消費し切れないコンテンツがあふれている時代に生きていて、かつゲームを実際にプレイする素養がない人間として非常に助かる。

 

信頼できない語り手、メタフィクショナリティ、作者の死といったテーマや技法を応用し、たぐいまれな作品を作り上げたDavey Wredenに最大級の賛辞を送る。これは今日において、もっとも優れた語りの構造をもつビデオゲームである。

 たんに紹介されているゲームが面白いだけではなく、紹介する書き手にもそれに負けない力がある。おそらく人文学全般、……とくに文学に対するアカデミックなバックグラウンドがあり、そういったジャンルで蓄積されているおなじみの概念を使って、ゲームのもつ創意を説得力のある仕方で分析して教えてくれる。

 

 いい感じに衒学的なのもうれしい。知識のひけらかしは最近はいろいろなところで嫌われていて衰退気味だけど、知識のひけらかしにもよいひけらかしと悪いひけらかしがあって、よいひけらかしは僕みたいな知識が好きなタイプの人間にとっては非常に好ましく映るんですよね。

 

私はおそるおそるゲームを立ち上げ、顔のまわりを飛び回る蠅の羽音を気にしないように努めながら、もういちど自動車を組み立てはじめた。三時間後、筆者はエンジンをかけ、車に乗り込んだが、車は動かなかった。それから筆者は自宅に備えつけられたフィンランド式サウナに入り、炉に大量の薪をくべて火を起こしたあと、そこから二度と出なかった。

 知的なだけではなく、ユーモアにあふれるゲームにはユーモアにあふれる文章を当てている。分析的に読むだけではなく、楽しんで、筆者の手のひらの上で浸りながらリラックスして読むことができますね。

 とくにこのフィンランドの田舎で車を組み立てるゲームのレビューはほんとうに面白い。

 

 ゲームの良さを紹介しつつ、そのフォーマットのなかで、文章としてのそれ自体の達成や卓越を目指しているような、ソウルフルで野心深い文章も多く目につく。ゲーム内でのバグと現実世界での天才を並べて記述し、2016年の3月11日に公開されたこのコラムはそのよい例でしょう。

 

5歳の誕生日に『ポケットモンスター』の『緑』を買ってもらった時から、ビデオゲームは私と共にありました。煎じ詰めればじつに単純なインタラクティビティと光の明滅に、なぜ我々はここまで驚喜することができるのか?この興味深い問いを少しずつ解き明かしていくつもりです。……もちろん普通のレビューも書きます。なんにせよ、すべてのコンテンツは受け手が自分の人生を忘れるために作られますが、驚くべき豊かな未来において、ビデオゲームはその目的を完全に達成すると思います。

 AUTOMATONでのプロフィール文章はこのとおり。……端正な文章だ。こういった文章を読みたかったり、癖とコンセプトのあるゲームを多少知ってみたかったら、読んでみて損はないでしょう。