歌集『朱夏峠』

 

 宮田宏輔の『朱夏峠』という歌集を読んだ。歌集というのは短歌(5・7・5・7・7のやつ)がたくさんまとめられているアルバムのようなものです。最初に出てきた短歌がこちら。

 

空きビルと空きビルの間。おびただしき吸い殻拾うわれと生徒ら

 いくつか買い物の候補はあったけど、この歌に興味を引かれたのでこの本を手に取ることに決めた。空きビルと吸い殻に形態上のリンクがあるような気がするし、それを拾っているわれと生徒らは、どんな背景があってそうしているのかはわからないので適当なことは言えないけれど、自分たちももしかしたらたくさんある空きビルや吸い殻と同様のものなのでは、と感じているようにも見える。

 読み進めていくと、「われ」はどこかのあまり治安がよろしくない学校の教師であることがわかる。

 

 失踪し十年過ぎたる父親の〈孤独死〉を告ぐ。停学の生徒

 〈母子〉〈父子〉〈無職〉〈派遣〉生徒らの家庭環境調査書に多し

 冒頭の連作〈生徒処分〉にはこのような歌が並んでいる。この連作だけではなく一冊を通じて、レトリックや調べを重視して作品を作っているようには見えない。見たもののうち、伝えるべきだと感じたものを、自己表現というものからは距離を置いた書きかたで書いている。詩というよりは、ジャーナリズム。句点をふつうに使うややレアな書法は、この短歌たちは韻文の形式を取りながらもスタンスとしては散文であるということを示しているのかもしれない。

 

大けやき伐られて残るおがくづのしろじろとして土になじまず

 これはおなじ連作の10番目に、教育困難校の生徒の実情を切り取ったそれまでの9首とはすこし違った歌が挟まれる。写生の歌であるが、この文脈で置かれるとかなりの深読みができる。そもそも単体で見ても、印象に残る光景と意外性のある展開を兼ね備えた優れた歌だと思うけど、それ以上の深みと広がりを得ている。具体的にいうと、土になじまないというおがくづを、なんとなく、困難な状況にある学校の生徒に囲まれた、教師である「われ」と重ねて見ちゃう。

 

 ジャーナリズムと文学は近いようで遠く、報道文がなんらかの文学的野望をもつというのは好ましいことではたぶんないと思うが、とはいえジャーナリズムと文学は遠いようで近くて、文学的な技術から距離を置いて作られたテクストが、結果的に、文学的な意味で読者に作用するということはけっこうあることだと思う。

 

 この歌集に収められた歌はジャンルとしてはもちろん文学なんだけど、なんとなくジャーナリズム志向のような雰囲気があって、ジャーナリズムが結果として詩的に読まれるときのような成功を収めている歌がある。ほかにも旅行詠だったり、日常生活の歌だったり、東京大空襲や神風特攻隊で犠牲になった人々に手向けて詠んだような歌もあるけれど、個人的には上げたあたりがいちばんの楽しみどころかなあと思いました。

 

みづうみの波にただよふ鴨の群れ 沖へ流れず、岸辺に寄らず

 

朱夏峠―歌集

朱夏峠―歌集