「デッサン #3」の2番、Aメロ

 

 言葉を使ってなにか物事を言い表すのはじつはなかなか難しく、それができる人間はわりと一握りしかいない。ほかの大多数の人間にできるのは、どこかで聞いた言葉や出回っているフレーズを繰りかえしたり、体に染みついた習慣化した言い回しを死ぬまで言いつづけることくらいである。

 

 ポルノグラフィティのギタリスト、進藤晴一が書く歌詞はファンから非常に高い評価を受けている。歌詞が上手いアーティストと聞いてはじめに浮かぶのは、独創的な言語感覚だったりセンスを持っているタイプの天才だけど、進藤晴一はそれとはべつのタイプの特殊能力を持っていると個人的には思っている。それが、上にあげた、言葉を使って自分の言いたいことを正確に表現する能力である。

 

デッサン#3

デッサン#3

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 その異能をつよく感じるのは、「WORLDILLIA」というアルバムに収録された(ほかに有名な曲では、「Mugen」や「カルマの坂」、「ヴィンテージ」などが収録されているアルバムである)「デッサン #3」という曲。さらに絞り込むと、その2番のAメロのフレーズである。

 

日々のささいなことにも

いくつもの分かれ道があって

大樹のような迷路で

折れた枝にたどり着いた

 シチュエーションとしてはカップルの別れの歌で、劇的な出来事というよりは、いままでのいろんなことが積み重なって、ある日ついに限界を迎えた、というような破局を描いている。

 

 歌詞からはっきりと読みとれるわけではないが、雰囲気としては同棲~半同棲くらいはしているカップルだと思われる。そのような、暮らしをともにする日々はけっしてスムーズに進むようなものではなく、それどころか、いろいろな瞬間に選択を迫られるものである。遅れて帰ることを連絡するか? べつにしないでもいいかな。冷蔵庫にある余りものを勝手に処分しても良いのか? 濡らした脱衣所の床は、ちょっとだけだしほおっておいてもいいか? 朝喧嘩した日の夜に、なにかお土産を買って帰るべきか?

 「日々のささいなことにも いくつもの分かれ道があって」というたった二行で、他人と暮らす生活の本質、そのなかで遭遇する、すれ違いとまではいかないものの、その芽のようなもの、その悲しさとどうしようもなさをぴったりと言い当てている。

 

 「分かれ道」という比喩は斬新なものではないが、この歌詞においては、事態を正確に言い表すと同時に、つぎの行の言葉を導く誘導灯のような役割を果たしている。「大樹のような迷路で」。日々の選択を「分かれ道」と表現したことで、同棲生活全体を「迷路」というさらに一歩進んだ比喩で言い表すことができる。その「迷路」という比喩をさらに「大樹のような」が修飾する。枝分かれしていく大樹と、分かれ道から構成された迷路のイメージ上の対比が、100点満点の比喩を成り立たせている。

 

 「大樹のような」もさらに、そのつぎの一行を導く。「折れた枝にたどり着いた」ここにいたることで、生活がどのような結果にいたったのかを残酷に正確に表している。分かれ道→迷路→大樹→折れた枝と発想をたどっていって、ただ奇想を繰り広げるのではなく、比喩のジャンプを続けていった三段目ではっきりと言いたかった当のことを言うことに着地する。さらっと書かれた4行のように見え、曲全体の流れとしてもとくにハイライトが当たるような部分ではないが、そんなささいなところにも作詞家としての実力が稠密に詰まっている。