アイロニスト批判が刺さった~アラスデア・マッキンタイア『依存的な理性的動物』~

 

 3年くらいまえに、「関心事について書かれているのではないか?」と思って購入したけれど、まあ~読まなかった本を今さら*1読み、自分のことのようにひきつけて感じるものがとてもあった。

 

 この本にはだいたい以下のようなことが(たぶん)書いてある。

 

・人間はそのほかのいくつかの動物と同じく、意図や理由を持って行動する生き物であり、その意図や理由が持つ行動によって最終的に目指すもの、として「善」*2というものがある、とすることができる。

・人間というのはかなり「傷つきやすい」生き物であり、その「善」に到達するには、外敵に加え、生まれつきの障害や生きるなかで生じる能力の減衰、身体的にも精神的にも無能力な人生の初期の部分を潜り抜けなければならない、といったいろいろなハードルがある。

・結局のところ、人間が「善」を追求するためには、その中で人々が与えたり受け取ったりするコミュニティ、が必要であり、人間の「善」とは、そういったコミュニティに根差しそのなかでサポートしたりされたりして生きることに役立つ、ということをはじめから織り込んだものであり、その意味では「個人の善」ではなく「共通善」である。

・そのような「共通善」とは、重い障碍者など、サポートを必要とする人に必要なものが与えられる、ということが含まれており、そういう助け合いの社会の維持に寄与するような人格的特徴を備えているということが人間の「徳」である。

 

 ケアの倫理と徳倫理*3の関係性について、得倫理が目指す徳の内実としてケアの倫理で言うような「ケア」を置くことができるのではないかと思っていたのだけど、その理論整備を行っている本のようにも読める。

 作中で「ケア」という言葉は全面的には出てきていないが、マッキンタイアさんも「ケアの倫理」は意識しているのではないか。

 

 それに加えて、最近ちょっと関心の出てきた「動物倫理」に関してもこの本はちょっと意識しているように見える。話のフォーカスは、最後には人間に合わせるのだけど、その途中で、動物たちにも人間が持つような「行為の究極の目的としての善」があるということが印象的に主張される。

 動物に配慮すべき、といった論点は扱っていないが、あえて扱っていませんよ、というちょっとすかした態度が見えている。実際に、「共通善」の基盤である「与えたり受け取ったりするコミュニティ」のなかに、重度の障碍者や意思表示のできない乳幼児を当然含めたのとおなじ理由で、人間以外のいくつかの種に属する個体を含めることはできるであろう。

 

 もう一点だけ個人的に刺さったのはリチャード・ローティが『偶然性・アイロニー・連帯』で賞賛したような「アイロニスト」に対して、けっこう根本的な批判をしたところである。

 

 「君はいま受け入れられている共通善を斜に構えて見るかもしれないけれど、その『なにがいいことなのかについて冷静に考える』というのも共同体のサポートのなかでこそ成立する行為だぜ? コミュニティからいったん離れるときみは言うけれど、それは『なにがいいことなのかについて冷静に考える』サポートの輪から外れる、善ではないスタンスだね」

 というのがその批判の大まかなところであり、まあいま斜に構えて見ると、リベラルとコミュニタリアンの典型的な対立のバリエーションじゃないか、と思ってもしまうが、とは言え1冊分の議論を読んでかなり堀が埋まったあとだったのでけっこう刺さってしまった。

 

*1:いや、人生に「今さら」なんてないぜ。

*2:ふつうに言う意味の「善」ではなく、その内実がなんであれ、生き物がその生涯のなかで目指す、つきつめていったときの目的(生殖とか、個体の生存とか、幸福な人生とか、なんでも)があるよね、それを「善」としよう、ということ。

*3:ルールや行為の結果ではなく、人間のもつ性格とか良い資質みたいなものに着目する倫理を徳倫理という。