弱者男性論を見るたびにちょい切ない

 

(弱者男性論については、例えばこの記事などをどうぞ)

 

 インターネット上で「弱者男性論」という議論を見るたびにちょっと切ない気持ちになる。

 この「弱者男性論」という議論は、「強い職業とか社会的立ち位置とか、外見だったり内面の魅力を持たない男性は、女性から伴侶として選ばれず、社会的なつながりだったりにも恵まれないので、弱い立ち位置、被差別的立ち位置にあり、男性だという属性のためにそこから掬いあげられることもない」という問題意識を持っていて、その解消のために「女性はもっと弱者男性を愛するべきだ。そのために男性に多く就労機会や社会的地位を配分すべきだ」といった主張がなされているのを見かける。

 

 理屈で考えるかぎり、僕はこういった形の主張のほとんどの部分に同意できないのだが、(本当に心から)主張しているひと*1に対してはけっこう同情を感じてしまう。

 どっちかにつけと選択を迫られるなら、議論の上では支持はできないとは思う*2が、心情的にはつきたいなという気がする。

 

 ただ、同時に、非常に切なく思うのが、「弱者男性論」の主張において「弱者男性」がその辛さから抜け出す道として挙がるのが、たいてい「異性からの承認や愛」になるところである。

 

 そこが個人的にはちょっと切ない。構造的に弱者で、その大勢はなかなか変わらなくて、けど個人的で親密な承認・つながりがその辛い現状を和らげてくれるなら、異性じゃなくて俺じゃ駄目なの…? という気分になるのである。

 

 まあたしかに、性的な関係を持つことはできないが、かわりに何周もした「スーパーデラックス」を朝までプレイすることができるし、わざわざ予定を合わせてラーメン屋を食べてそれだけで解散することもできる。

 酒が安い店で死ぬほど酒を飲むこともできるし、YouTubeを流しながら宅飲みでもいいし、飲まずに深夜の公園を散歩するだけでもいい。

 ていうか、実際に、高校の時は近くのメモリアルパークの駐車場で一生バレーボールをついて遊んでたし、となりの敷地に入ったボールを回収するために有刺鉄線の返し付きのフェンスを協力して乗り越えたりもした。大学の時は学祭前通話を繋ぎながら徹夜で作業をしたし、その1回しか使わなかった釣り竿でボートまで借りて釣りをしたりした。

 

 テストの前は数学の話をしたし、泥酔して目覚めた朝は昨日の夜のことなにも覚えてないねって話をした。意味もなく服をあげたし、逆にもらったりもした。Zoomを繋いで、そんなに話が弾むわけでもないのに切断するタイミングを見つけるまでに5時間かかったりもした。

 カラオケで意味もなくハイタッチしたり、ベランダで意味もなくタバコの火をつけ合ったりした。

 

 たしかに、青年期を終えるにあたって、いままでのそういうのとは違う関係を見つけて、それを人生における親密さの軸にしていく、……すくなくとも軸にしていく人が多数派になる時期が来ているのだとは思うのだけど、それでも、これまでのやり方が一気に重要じゃなくなるってわけでもないでしょ? そうであってくれ、と個人的には思う。

 そしてその、これまでのやり方というものが、「弱者男性論」のなかで魅力的に映らないのが、まあこの連れがいればいいじゃん、みたいな感じにならないのが、ちょっと切ない感じになるのでした。

(この曲の、車に乗ってるときの感じとかいいよね)

 

 とはいえ、そういうコミュニティではしばしば同性愛者や女性と言ったマイノリティへの「悪気のない軽口の形を取った差別的発言」*3があることがあるので、……手放しで持ち上げることはできないが。

 

 ただ、そうした有毒さと、この感じの親しさはかならずしもセットでなければいけないものではない。内側から慣習を変えて、毒性のない心地いい空間にしていくことだってできるでしょう。この感じのもつ可能性を、いまのところは僕も信じている。

 

*1:心から主張しておらず、フェミニズムリベラリズムに対する反撃のための便利な武器、みたいな感じで扱われている場合もあり、そういうことする人はちょっと嫌い。

*2:まあ~、理屈も大事なので。

*3:明確なヘイトがあるより、ひょっとしたら悪い。