これまでこういう節目のものはちょっと遅らせて行い(これやこれなど)、回数なんて重要なことだと思っていない、というふうにさもふるまうのがかっこいいと思っていたのだが、最近はそこまでそれはかっこよくないのではないか…、と思うようになってきた。これがちょうど500日目の更新で、ちょうど500回目となっている。
これまでの499記事のなかから、思い入れのあるものをふりかえっていきたい。
何かを紹介するときに、その紹介される対象のなんらかの性質を紹介する文章にも埋め込むのが好き、という性癖があって、思いつくたびに試している。
このときは、英語を機械翻訳したっぽい文章を書く、ということにチャレンジしたのだけど、なかなかこれが楽しくて楽しみながら書いていた。ふだん僕は楽しんでキーボードをたたくことはないのでこれはめずらしいことであり、記憶に残っている。
自分の考えたオリジナルのしりとりをプレゼンしたのがこちらの回である。「すきなもの」という縛りは気恥ずかしくもあるが、そのぶん熱を入れることができるものであり、しりとりというフォーマットの良さを最大限に生かせる縛りなのではないかといまでも思っている。
回の終わりの部分では自分でひとりで「好きなものしりとり」をやっているのだけれど、途中からどうせばれないと思って全然好きなもの書いてなくてびっくりした。ばれないからっていい加減な仕事をすると、未来はないぞ。
フィクションのなかではこれが一番気に入っている。*1あるとき二日酔いで寝っ転がっていて、枕元にあった缶ビールの「お酒は二十歳になってから」という文章を見て、そのあと1分くらいで内容をぜんぶ思いついて、「まあ、これだけ思いついたら仕上げてみるか」と思って二日酔いに苦しみながら仕上げたものである。
個別のエピソードを語る部分と、ダイジェスト的に時間の流れを語る部分をシームレスにつなげることによって全体の長さをがっつり圧縮する、というやりかたに3年くらいはまっていて、それが一番うまくいっているのがこれではないだろうか。
僕はなかなかそうすべき場でとっさに下座に座る、下座に座るのが自然な流れになるポジション取りをするのが苦手で、上手くできなかったことがあるたびに何度もインターネットで上座と下座を調べて改善してきた。そのこれまでの積み重ねが実を結んだ良い記事ではないだろうか。
*1:嘘かも、「さよならボキャブラリー」のほうが好きかもしれない。