物持ちがいいひと、と呼んでくれ

 

 実際には物を買うのが面倒くさいだけのひとである。しかし、物欲がない、というわけではなく、物を見たらそれが欲しいかどうかもわかっているつもりではある。現実に、雑貨屋さんだったり、服屋に行ったりしたら、「あ、いま俺はこれを欲しいと思っているし、これのとなりにあるこれはそこまで欲しくはない」と、いうような「欲しさ」に関わる心の動きは自分で感じ取ることができる。これは物欲があると言っていいだろう。

 

 しかし、実際に「欲しい」と思ったものを持ってレジに行くということがかなりできない。お金がなかったころはそれで正解だったのだが、必要なぶんのお金を持っている状態で欲しいものが買えない、ということになるといろいろな弊害が出てくる。今日生じた弊害についてはページのあとのほうで話そう。

 まずは、どうして僕は実際に「欲しい」と思ったものを持ってレジに行くということがかなりできない、のか、僕なりの考えをまとめてみた。

 

 欲しいものはかなりイケてるし、僕の生活にあったほうがいいという気はするのだけど、そのものを所持している自分をリアリティを持って想像できないのである。ポルノグラフィティで言うなら「ジョバイロ」状態*1である。

 もうすこし言い換えると、その目のまえの商品のことは気に入っているのだけれど、その商品と長い時間を過ごすとなってみると「?」と疑問符がついてしまうというか。……レジに持って行くまでのあいだに、その「?」を振り払えず、行儀が悪いが、「やっぱり…」と思って、カートからものを棚に戻してしまう。「独身者の最後の憂鬱」*2状態と言ってもいいだろう。

 

 そのため僕の持ち物は子供のころからずっとボロボロだった。スポーツバッグは底が抜けて無くなるまで使ったし、母親には「虐待していると思われるから新しいものを買いなさい!」と何度も叱られた。

 親元を離れてからは、さらにものの買わなさは過激となり…。「どうせシャツで隠れる位置だからバレない」と思っておしりに穴の開いたズボンで成人パーティに参加したし(バレなかった)、「どうせだれもそこまで見てない」と思って両方の蝶番が壊れた眼鏡をセロテープで補修してずっとかけていた(これは目敏い少数のひとにはバレた*3)。

 

 そういう生のスタイルが災いしてさきほどちょっと困ったことになった。僕は部屋着のズボンを2着しか持っておらず、そのうちひとつは叔母がタイ旅行で買ってきてくれたひと目で「タイのお土産だな」とわかるような薄い生地のズボンで、それをずっと使ってて、いろいろなところに裂け目ができていた。

 洗濯のこととかを考えるとズボン2着所持はマストの条件なので、かなりまえからズボンを買わないとな、とずっと思っていたのだけど、先述の理由から結局買えていなかった。そのズボンがさきほどまっぷたつに裂けてしまった。履こうとしたときに裂け目のひとつが足に引っかかってしまったのである。悔しすぎる。

 

 「複数のパーツに分かれないうちは履けるな笑」という冗談めいた思いをよりどころにしていたので、いまはとても悲しい。もっとまえから真剣に代役を用意していれば、死んでしまうまでこのタイズボンを酷使せずに済んだだろうに。死んでしまうまでズボンを酷使した人間が行く地獄はどんな地獄なんだろう…。*4

 

 まあ。あした! あしたには、新しいズボンを買いに行こうと思います。それでも買えずに「ま、外着があるうちはそれを転用しとけばいいか」とか思いはじめたら、俺は、俺を叱るぜ。

*1:恋の歌だが、「あなたの隣にいる自分をうまく思い描けない」という悲しい歌詞がある。

*2:とくに出典はないです。こんな言いまわしは無いかもしれない。

*3:この間違い探しに気づけたひとのことは素直に尊敬していて、頭のなかに達成者のリストを作って管理していた。

*4:やはり自らがズボンとなって「物持ちがいいひと」に履かれるという地獄だろうか。