つきあいはできても理解はできない~フィリップ・ロス『さようなら コロンバス』~

 

午後の残りは、水の中ですごした。プールの底には、八本の線がひいてあったが、夕方までには、その八本の黒線の一つ一つに、伸ばせば手の届くほどの底まで潜ってみた。

 

 フィリップ・ロスの小説、『さようなら コロンバス』を読んだ。フィリップ・ロスさんというのは現代アメリカではとても名の知れた、すくなくとも四天王に数え上げられるクラスの作家で、この『さようなら コロンバス』は20代半ばで書いたデビュー作である。日本では1970年代に出たバージョンしか翻訳では入手できないようだが、被言及に恵まれている作品なので、うわさには聞いたことがあるひとは多いだろう。

 

 主人公のニールは公立大学を出て図書館で働く23歳の青年。叔母宅に下宿して、貧乏とまでは言わないけれど庶民的な暮らしをしている。そんな彼があるとき、プールで「眼鏡を持っててくれない?」と頼まれて眼鏡を持ってあげた女の子、ブレンダに恋をする。彼女は郊外の邸宅で暮らす実業家の娘で、日本の現皇后も通っていた名門私立女子大の学生である。

 

 そんなふたりがひかれあい、愛を確かめあったあと、破局する、というだけの話だが、それぞれの人物やエピソード、主人公の目に映るものものの描写が極めて優れていて、とても面白いなあと思いながら読める。

 

 世界を形作るいろいろな要素を、しっかりと再構成して落とし込んでいる作品なので、この小説のどういうふうに楽しむかは読む人の裁量である。個人的には小説のなかで描かれている、階層の描写に目を惹かれていた。

 とくに主人公とブレンダ家族との絡みがとても良い。出された食事が多すぎて食べられないでいると、ブレンダ父の話題がそこに集中してしまって気まずい思いをするところとか。ブレンダ母に宗派を聞かれ、とくに信仰熱心ではない主人公がそれでもなにか共通の話題を作ろうと、宗教哲学者の名前を出すんだけど、ぜんぜん興味を持ってもらえないところとか。ブレンダ兄に音楽を聴かないかと誘われて部屋についていくんだけど、ブレンダ兄が流したのが母校の卒業セレモニーの録音だったこととか。

 

 おたがいとうまく付き合うことには関心があるんだけど、同時に、こころの底からは通じ合えない相手であることにも気づいていて、そのことはしかたがないとあきらめてしまってとくに問題視もしない、……というような状況の持つ救いようのなさがこれでもかと描かれている。

 

ぼくの呟いた意識的な言葉を、祈りとよべるだろうか? ともあれ、ぼくは聞き手を神とよんだ。神よ、僕は二十三歳です。できるだけよくやってゆきたいんです。

 

 作品の個人的なハイライトは、古い家具が詰まった物置でブレンダが、昔父親に「これはブレンダのために使うお金だよ」といって隠しておいてくれたお金を探すんだけど見つからなくて、「ときどき確認しないと無くなっちゃうんだわ」とブレンダが嘆くんだけどそれを見て主人公が、自分たちが若い夫婦になってこれからの人生が良くも悪くも見通せてしまうくらいの時期の光景を客観的に幻視してしまうシーン。

 

 このイメージのつながりの凄みはすごかった。世界にすでにある材料を、これまでになかったしかたで組み合わせて、一見つじつまが合わないようなストーリーを作るんだけど、なぜか、それが衝撃をもって読む人に伝わるという、限られた数の作家にしかできない感じのやつである。

 

 作者のフィリップ・ロスさんは、2年前に亡くなっていた。高齢だけどご存命というイメージがあったのでなんとなく意外だ。