賭け事が得意じゃない

 

 それを賭け事というのかはよくわからないけれど、ゲームセンターにあるメダルゲームも一応、競馬やパチンコやカジノゲームなどを典型的な例とする「賭け事」に準ずるものだと言えるのであれば、僕ははじめて賭け事をしたときのことをよく覚えている。

 生活安全課に属する警察官だったということもあり、僕の父親は射幸心をあおるゲームに対してとても厳格だった。……厳格だったのだけど、気まぐれなところもあって、気まぐれに思いついて気に入ったことであったら、それがたとえ自分の習慣や信念に反することでもふつうにやっちゃうようなひとだった。その気まぐれがさく裂したとある日に、ショッピングモールのメダルゲームコーナーに僕は連れていかれたのである。

 

 当時5歳くらいだった僕は、メダルゲームを楽しむということがまったくできなかった。魚釣りゲームとかみたいなゲームに負けてメダルが1枚1枚減っていくことが辛すぎて辛すぎてずっと泣いていたのをおぼえている。歯を食いしばって「きょうはゲームセンターにいきました。メダルをふやすのではなくなくしてあそびました。たのしかったです」という文面の日記を書いたことまで鮮明に覚えている。

 

 そのときからいまに至るまで、賭け事というのをまったくしたことがない。賭け事を道徳的な悪だととらえているわけではないし、勝ち負けのスリルや駆け引きが嫌いなわけでもない。

 ただ、自分の選択によってなにかが失われるのが辛くてしかたがないだけなのである。

 

日々の生活には、少額の賭けをプラスすることによって興味深くなるものが山ほどある。特にひいきチームがあり、相手方はそのライバルチームのファンであるケースなど、少額の賭けはテレビ観戦を何倍にも面白くしてくれることは、多くの者が経験しているはずである。

谷岡一郎『現代パチンコ文化考』

 最近、賭け事についていろいろ勉強していて、こういう発想があるということにちょっと新鮮な驚きをおぼえている。僕自身はなにかが失われるのが辛すぎるので、試合に少額のお金を賭けることでなにかが面白くなるという気はまったくしないのだけど、そう感じる心の動きと僕が持っている心の動きの違いに興味がある。

 

 もっというと、なにかが失われるのが辛すぎて賭け事をシャットアウトしている状態の人間よりは、なにかが失われることがあったとしてもそれを遊興の対価だととらえて、全体として賭け事というイベントを楽しむことができる人間であるほうが、寛容さや器の大きさといった点から、よりよい人間であるような気がなんとなくしているのである。

 

 賭け事を楽しめる人間になりつつ、賭け事というのがどういう営みなのかをちょっと理解する、というのが、今後たぶん1年くらいかけて取り組む個人的なプロジェクトになるかもしれない。「恋愛を楽しめる人間になりつつ、恋愛というのがどういう営みなのかをちょっと理解する」というここ2年くらいかけて取り組んでいたプロジェクトが円満に終わりつつあるので、良い機会だ。

 

 代償がお金じゃない賭け事、たとえばゲームで負けた人が目の前の杯をイッキするとか、じゃんけんで負けたひとがつぎの曲がり角まで全員の鞄を持つとか、そういうタイプの営みは嫌いどころか大好きだったので、これがとっかかりになる気がする。……そうなんじゃないでしょうか。