月の檻


 地球から月の裏側が見えないのと同様に、月の裏側から地球を見ることはできない。

 


 「最初はみんなそう言うんだぜ」私の監視役は影のように私にぴったりついてきた。月に収監されている以上、監視役の目を逃れることはできないし、したところでペナルティが科されるだけである。「最初はみんなそう言うんだぜ」どうせ監視役は私に効くと思った言葉を繰り返しているだけの無能だ。視線があるのは煩わしいけれど、逆に言えばそれさえ我慢していればいい。いまは境遇を受け入れるしかない。そして、胸の内にある怒りの火を月の暮らしの無為という逆風から守らないといけない。ここをどうにかして抜けだして地球に戻り、最後の一人を殺して復讐を達成する。それが私の悲願だった。

 

 「最初はみんなそう言うんだぜ」24世紀の月の裏側は世界でいちばん悪質な犯罪者ばかりが送り込まれる流刑地だった。月の表側は未開拓の原野でだれも住んでいない。一本だけ、月の赤道にほぼ沿った鉄道が引かれている。「おい聞いてますか? 最初はみんなそう言うんだぜって」月の裏側で私たち受刑者がやることは刑務作業それだけだった。月には地球にあるのとおなじ数の仕事があり、流刑者たちが社会を営んでいた。地球では犯罪を犯すようなやつらばかりが集まっている月の社会はかなり低級なものだったが、それぞれにひとりずつついている監視役のおかげで崩壊だけは免れていた。月にはお金の代わりに「ポイント」が流通していて、刑期を一日務めるたびに一定額が、刑務作業をこなすたびにその作業に応じた額が振り込まれるようになっていた。

 

 24世紀の月は監獄だ。全員が終身刑。仮釈放はない。そういうふうに地球のやつらが法律で決めたのだ。

 

 私の目標は月を脱獄することだった。脱出は不可能だと言われていた。けれど、来る手段があるのにどうして戻る手段がないなんて言えるだろう。脱獄に関係のないことはしたくなかった。だから、はじめて対面したとき、刑務作業を頑張ってポイントをためることをしきりと勧める監視役に、私はこう言ってやったのだ。

「ポイントなんていらないね」
「どうして? ポイントがあれば、より良い暮らしができる。おいしいものが食べられる。休日にするスポーツのためのウェアを揃えられる。防音の家に住める。酸素配給の行列をスキップするためのファストパスも手に入る」
「ポイントなんていらないね。どうせ、月でだけ価値のあるものだ」
「言い忘れていた。これがいちばん大事なんだ。聞いてますか? 100万ポイント貯めると、月の表側に行ける旅行券が手に入る。月の表側に行けば、地球が見える。おまえら受刑者の大好きな星が見える。ここにいるやつらはみんな、年に一度100万ポイントをはたいて地球を見る、そのために毎日頑張って働いているんだ」
「残念だけどそいつらは終わっているな。見るだけの地球に、何の価値がある? ポイントなんていらないね」
「わかってないな。最初はみんなそう言うんだぜ?」

 

 私は毎日追加される最低限のポイントだけで生活をした。もともと、素朴な暮らし以上を望む人間ではないし、地球にいたときも素朴な暮らし以上の暮らしはできなかった。それに、母親を殺されてあとは復讐のためにすべてを切り詰める必要があった。月に収監されたからって、生き方を変えるつもりはないし、地球に行くためではなく地球を見るだけのためにポイントを稼ぐことなど、馬鹿らしく思えて仕方がなかった。

 私は胸の内側の火に薪をくべながら、日々を過ごした。「調子はどうだい」影のようにつきまとう監視役のことは、無視した。

 

 何年の歳月がたっただろうか。脱出計画はいまだに机上の空論のままだった。日々の収支が積み重なって、いつのまにか70万ポイントほどの貯蓄ができていた。

 

 それは一瞬の気まぐれだった。一度地球を見に行ってみるのもいいのじゃないだろうか。心を許しあうほど親しくはならなかったが、多少の関わり合いがあった隣人が、月の表側へ行った帰りに私にお土産をくれたことを思い出す。見た地球について、彼女は多くを語らなかった。流刑地で長く暮らしているのであれば当然、地球見物旅行の経験はあるはずだし、経験があるのであれば多くを語り交わす必要はないと考えているのだ。

 気まぐれは過ぎ去っていかなかった。月の表側を一度見ておくことは、将来的な脱出計画立案の際にプラスになるのではないか? 私の頭は私を納得させる理屈を勝手に作りだした。理屈は私を深くとらえた。このままの暮らしを続けていくとして、100万ポイントがたまるのはいつになるのか計算した。すこし遠すぎるようにも思えた。私は初めて刑務作業の斡旋所に行き、いくつかのマッチング面談の日程を取り決めた。

 そのあとは勤勉に働いた。犯罪を犯さなければ生きていけないような人間とは違って、私はまじめに働くことができる。法律を破ってしまったのは、そうしなければ達成できない目標があったというただそれだけが理由だったのだ。職場で私はたちまち頭角を現した。100万ポイントがたまったところで私は退職を申し入れたが、上司はなんとしてでも止めたがった。結局説得に折れる形で、とりあえず期限を決めない休職という形をとることとなった。

 

 月の表側へ続く始発駅のコンコースは混みあっていた。家族連れ、カップル、ひとり、団体旅行、たくさんの人間がいて、皆一様に期待にゆるんだ顔をしていた。客観的に見れば私もその一員であることに嫌気がさしていた。「だから言っただろ? 最初はみんなそう言うって」監視役がしたり顔でなんども繰り返す。違う。そうではない。ここにいるしまりのない観光客たちとは違って、私は、ただ、貯蓄に余裕ができたから、将来の脱獄計画の下見として地球を見に行くのだ。「最初はみんなそう言うんだ。最初だけはね。聞いてます?」監視役が話しかけてくるたび、私は不快になった。

 

 しばらくして、列車が走りだした。客室の天井はガラス張りだった。私はベッドにあおむけに寝転がって、夜空を見上げた。胸が未知へと高鳴った。

 アナウンスが放送された。私はベッドから起き上がり、テラスへと出向いた。テラスには月の受刑者が詰めかけていた。皆一斉に地平線を見つめていた。

 地球の出とともに歓声が沸き起こった。青い星だった。我々が生まれ、そして放逐された生命の星。二度と私たちを受け入れてはくれない無垢の星。複雑で鋭利で神聖で、慈悲深くも容易に許しを与えない青い光。喜びに飛び上がるものもいれば、悲しみに打ち震えるものもあった。怒りにこぶしを握るものもいた。憂いに閉じこもるものもいた。地球は、それぞれの受刑者に強い感情を呼び起こす美しいかけがえのない星だった。

 テラスで立ち尽くしたあと、私は個室に戻った。ベッドにあおむけになって空に浮かぶ地球を見ていた。知らないうちに涙がこぼれていた。

 地球は列車のスピードに合わせて天に架かる線路の上を歩んだ。地平線に差しかかると、またテラスは地球を眺める人たちで満杯になった。一日中地球を見つめ続けた月の受刑者たちは、覚悟を決めた面持ちで地球の入りを見送った。明日からはまた、今日の素晴らしい光景をまた来年も見るために働くのだ。ずっと馬鹿にしていたその営みの価値を、私は否定することができなくなっていた。

 

 列車が終点にたどり着いたあと、私はその足で職場に向かった。休職願を取り下げて、明日からまた刑務作業に戻るのだ。脱出計画を、復讐を忘れたわけでは絶対にない。脱出計画を練りながら、100万ポイントのために働く、そのふたつはなにも矛盾していない。感動的なもののための、感動的な営みではないか。

 また地球が見たい。私には、――月の全住人にはあの光が必要なのだ。