棺がなければ葬式はできない

 


 私が幸せだったのは母親が死ぬまでのあいだだった。母が私たち二人の部屋のロフトベッドで息を引き取ったとき、私は家の壁飾りを磨いていた。家の持ち主は大金持ちで、壁飾り以外にもたくさんの装飾品を家に取り揃えていて、私の昼の仕事は、それらの品々を油を含ませた布でこすって磨くことだった。およそ三か月でひととおり磨き終わるのだけど、そのころになると最初にてがけた品々はまた薄汚れてきているのだった。

 

 昼の仕事と夜の仕事のあいだには1時間の休憩がある。昼の仕事があって休憩、そのあと夜の仕事で、それが終わったら休憩、そしてすぐに昼の仕事。一日に与えられる休憩はそれだけだったけど、それでもなんとかやっていけた。昼の仕事は手先を使う代わりに、頭はずっと休んでいられる。ぎゃくに夜の仕事は頭をたくさん使うけれど、身体的な負担はなかった。

 

 休憩は、太陽が水平線をまたぐちょうどその前後の1時間。一日のうちで最も美しい1時間にぴったりとあたっている。私はいつも、休憩のあいだじゅうずっと、家の窓から空を眺めて過ごしていた。しかし、母が死んだ日だけはべつで、私は私たち二人の部屋にもどらなければならなかった。しかし死者をどうすればよいのか、昼の仕事と夜の仕事以外のことはなにも経験したことがない私にはまったくわからなかった。つぎが夜の仕事で良かったと思った。太陽が水平線をまたいで、そのあとしばらくすると休憩の1時間が終わる。夜の仕事は家の持ち主のすぐそばで行われる。仕事が始まった直後、私は家の持ち主に母が死んだことを伝えた。

 

 「人が死んだのであれば、葬式をしなければならない」「葬式をするには棺が必要だ」「しかしこの家に空いている棺はなく、お前とお前の母親の持ち物にも棺はない」家の持ち主はそういった。しかし、私はどうすればいいのかわからなかった。

 

 「人が死んだとき葬式をするのは、しなければならないことだ。しかし、棺がなければ葬式はできない。あきらめて放っておくしかないね」家の持ち主ははそう言って、夜の仕事を始めた。私もそのそばで、夜の仕事を始めた。

 

 母はロフトベッドに横たわったままだった。なにも言わず、なにも答えなかった。その日から、休憩の一時間は空の光の美しい時間ではなく、母の死を見つめる時間になった。胸がつぶれそうになり、自然と涙がこぼれてきた。私のなかで決意が形をとって現れてきた。棺があれば葬式ができる。家の持ち主にはなにも告げず、私は家を抜け出した。ほんとうなら昼の仕事に行かなければいけない時間だった。

 

 夜の仕事に行かなければいけない時間まで街道を歩くと、ようやく町に行き当たった。通りすがりの人に事情を話すと、町の反対側にあるという棺職人の木工所を紹介してくれた。

「棺が欲しいのですが」

 棺職人は私にいくつかの質問をし、それをもとに見積書を作った。差し出された見積書を受け取るまでもなく、私はほんとうのことを言う。

「支払いはできません。……支払うお金がないんです」

 私は母が死んだことを伝えた。葬式をするにはどうしても棺がいるのだということを訴えた。棺職人は冷たく言い放った。「支払いができないのなら、棺を渡すことはできないよ」

 

 私はなにも考えられず、通りへと戻りかけた。そのとき、職人が大きな声で私を呼び戻した。「支払うお金がないが棺が欲しい、そうであれば、自分で棺を作ればいい」職人は私の肩をつかんで作業棚の工具箱のまえに連れてきた。「道具はここにある。どうすれば、これで棺が作れると思う?」

 

 私の生活は元に戻った。朝の美しい1時間を屋根裏部屋で眺めたあと、私は工房で棺職人のそばに立ち、彼の命令に従って様々な細かなものを出し入れする。出来上がった棺を台車に乗せて運ぶ。木くずをまとめて麻の袋に入れる。前の家での仕事とは違って食事はもらえなかったので、私はその木くずを食べて命をつないだ。木くずはそのままだと柔らかく、天日に干して乾燥させるとカリッとした食感になった。

 

 夕方の美しい1時間のあと、私はまた無人の工房へとおりる。棚からさまざまな大きさ、形をした工具を取りだし、それで木を彫っていく。昼間の職人の仕事を思い出しながら、どこをどう工作すれば母にふさわしい棺になるのかを考えながら掘り続けている。そうしていると朝の休憩の時間がやってくる。これをずっと繰り返した。ひさびさに、一日のなかに休憩の時間が現れたことがうれしかった。母を見つめて涙を流さずに済む休憩の時間が。

 

 昼は職人が棺を作るのを間近で注視し、夜はそれを自分で真似した。はじめての棺が出来上がったときは真夜中だった。職人が寝室から現れて、大きなくさびを金づちで棺の天板に打ち込み、それを壊してしまった。「誰だって最初はこんな出来損ないを作るさ。もう一回やり直してみな」そのあとも、昼は注視し、夜は作った。合間には空を眺め、木くずを食べた。

 

 あるとき職人は病気になり、動けなくなった。いちどは治って棺に鉋をかけたものの、元気だったのはその一日だけだった。昼、私は椅子に座る職人から指示を受け、指示通りに棺づくりを引き継いだ。私は大きな失敗をして、職人は目の前の棺にくさびを打ち込んで壊すようにと私に告げた。私はそれに従った。二度目は売り物になるものを完成させることができた。夜は相変わらず、母のための棺を作っていた。なんど完成してもその姿に納得がいかず、作っては壊しを繰り返した。

 

 職人の病気は進み、あるとき完全に動けなくなった。それから息を引き取るまではすぐのことだった。葬儀人がやってきて、葬式の段取りを整え始めた。親戚やお得意様が集まって、さて葬儀をはじめようとしたところで、誰かが言った。「で、棺はどこにあるんだ? こいつを埋めるには棺がいるぞ」

 

 棺職人は自分が死ぬための棺を用意していなかった。注文で手がいっぱいで、自分のためにかけられる時間はなかったのだった。騒ぎになった。これは笑い話だ、と、盛り上げるのが上手なひとが大声をだして手を叩いた。

 

 私は工房の奥に隠していた、母のために作った棺を取りだした。完成したばっかりの棺だった。なにかが足りないような気はしたけれど、自分の手で壊す積極的な理由は見つからないくらいにはうまくできた棺だった。

 

 職人は私の作った棺に詰め込まれ、葬列はさわがしさを連れて工房からいなくなってしまった。私はめまいがして、職人がいつも座っていた椅子に座り込んだ。ちょうど朝だった。私が空を見つめていると、若い夫婦がやってきて私に尋ねた。「棺が欲しいのですが……」

 

 棺がなければ葬式はできない。喪失感はあったけれど、職人を送り出したことへの安堵もあった。ならば、これでよかったのだろう。私は注文を受けて、新しい棺を作り始めた。夕方の休憩が終わったあと、私は迷いに包まれた。夜のあいだ私はどうするべきだろう。注文の棺を作る続きをするのか、母のために新しい棺にとりかかるのか。

 

 どちらをするか決めて、作業に取り掛かったあとも、迷いはずっと私につきまとい続けた。これは一生振り払えない種類の迷いだったということに気づくのは、棺を作り続け何十年という時間が過ぎるころだった。