ログとしての短歌

 

 僕は短歌を作るという趣味があるが、作品を作っているという感覚はあまりなく、自分の頭の中にあるイメージのログを定期的にとっている、という感覚が強い。そんなの日記*1やツイートでいいじゃないか、という考えもあるが、短歌の形式で生のログをとることにはそれなりの独自性とメリットがある。

 

 日記だと基本的には事実か、リアルの自分の考えを書くしかないが、短歌だと事実ではないことやフェイクの自分の考えを書きのこすことができる。ツイートは公開されてしまうが、短歌だとだれにも読まれずにすむ。

 

 だれにも読まれずにすむ、というのは(発表とかしなければ)物理的にそうであるということでもあるが、もっとメインの意味は、短歌が優れた圧縮の方法であることであり、自分しか解読できない私的な暗号になる、ということである。

 

僕が勝ち君が負けたということもわからぬ君が読むYOU LOSEと

 たとえばこの歌は、僕にしかわからないが、けれどもまったく直接的な方法で、2017年3月のとある夜(日付は忘れた)に行った白山のラーメン屋さんで思ったことを指し示している。

 

早く文化祭になあれ コーヒーの豆をごりごり挽き潰す音

 こちらはその当時買い集めていたとある漫画のひとつのエピソードである。話が進んでいくにつれ、すこしずつ自分の興味からは離れていって、買い集めるのがちょっと楽しくなくなってきたころ、ひょっとしたら僕はこの漫画を最後まで読むことはないかもしれない、し、普通に数年たったらこのエピソードの存在も忘れてしまうかもしれないと思って、この歌を作った。

 

鳥たちの前世は風車 海風にどんな心もよろこんでいる

 これはちょっとしたアイディアである。実現までが遠すぎて、難しく、……けど忘れ去ってしまうのが適切なほどには実現不可能ではなく、魅力的だった。これを見るたびに、そのアイディアの実現にまったく近づいていないなあ、と苦笑いしてしまう。

 

バス停で缶コーヒーは熱かった 曇りの夜の形勢逆転

 バス停と書かれているが、本当はバス停ではなく、なか卯京都八条口店である。寒い夜で、ネットカフェの席が空くまで駅の周りを当てなく歩き回っていた。

 

僕たちは街を飛び出しシロップの海をキャラメルフィッシュが泳ぐ

 これは今も効力の切れていない、ある個人的な決意である。ただ、これに関しては、ログを残さなくても忘れないとは思う。もし忘れた場合は、たとえログが残っていても、決意は効果を失っているんだろうし。

 

踊り場に日ざしの帯は立ち止まり天使は堕天してゆくと中

 こういうふうに、ログとしての役目を終えた歌もある。2019年6月17日付の記事のショートストーリーのもととなった短歌で、出先で感じたインスピレーションを保存するためにその場でさっと作ったものである。そのときはべつのやることがあったので、その場でこのお話のイメージを詳しく検討することは不可能だった。

 

 これまで例示した短歌はたぶんどれもそんなに作品としてよい歌ではないと思うが、個人的にはおおきな意味を持っている。こういう、自分にとってしか意味のないものを作ったり、読み返したりしているときが一番楽しいかもしれない。

*1:このブログとは別に、僕には長い間つけている私的な日記がある。