『ある広告人の告白』デイヴィッド・オグルヴィ

 

この広告には、口紅、コーヒー、靴ずみ、血液等々、いくつか違う種類のシミの写真を載せた。血液のシミに使ったのは私の血だ。私はクライアントのために血を流したただ一人のコピーライターだ。

 『ある広告人の告白』という本を読んだ。僕はあまりこだわりなくいろいろな種類の本を読むタイプではあると思うが、なかなかビジネス書を読むことはなかった。興味がないわけではないのだけど、僕がビジネス書を読もうと思うと、中学校のころの僕がイケメンヘアカタログを読もうと思うのとおなじ気後れと気恥ずかしさを感じるのである。

 

 とはいえそういった気後れは一人の人間の人生に永久的な支配力を持つものでは通常なく、どこかでその恥ずかしさを越えるタイミングがやってくる。それが最近のことだった。

 

ある広告人の告白[新版]

ある広告人の告白[新版]

 

 作者は「広告の父」と呼ばれるくらい尊敬されている人物らしく、この本自体も1963年に書かれたものなんだけど、いまも広告業界の間ではバイブルとして読み継がれているらしい。実際に読んでみるとたしかにものすごく面白いし、説得されてしまう。それが広告の父が書く広告的な文章の力ということなのかもしれない。

 

プロの義務として、広告人は自分の技巧をひけらかしてはいけない。古代ギリシアの雄弁家アイスキネスが演説すると、人々は「なんと話がうまい人だろう」と感心したが、同じく雄弁家で政治家でもあったデモステネスが演説すると、皆「フィリッポス王を倒せ!」と叫んだ。私はデモステネスに与する。

 オグルヴィさんはひとつのクリエイティブ作品としても成立している広告こそが良い広告である、と考えている人もいる、と譲歩したうえで、しかし自分はその立場ではないと述べている。優れた広告とは、広告自体に関心を集めることなく商品を売る広告である、と。その方法として一番効果的なのは、その商品についての事実を述べることだとも。

 

 このあたり、広告というジャンルの矜持のようなものが感じられて非常に良かった。これまでの僕は広告という営みを、商品が売れるような嘘をついて雰囲気を曖昧に盛り上げる、ものだとなんとなく思っていたが、これは侮りだった。

 

 この「その商品が売れるに足ると説得できるような事実を見つけて、伝える」という広告の基本的な考えかたは、いろいろな局面で重要な示唆を与えてくれると思う。僕は物の売り買いが苦手なので、とりあえず「売る」というところを外して、もうすこし大きい述語を置いてもいいかもしれない。

 

 たとえば、この人生が生きるに足るという説得できるような事実を見つけて、伝えるということを僕はしてきたのだろうかと思う。もし自分に伝えることができたのなら、どこかで自殺を思いとどまることができるだろうし、もし他人に伝えることができるのなら、自分の力ではどうにもならなくなったときに助けを求めることができるのでしょう。

 

 ただ、僕がそれについてこれまでやってきたのは「嘘をついて雰囲気を曖昧に盛り上げる」ということだけだった、というのは間違いない。侮りが致命的な結果を生んでいる。