バザールへ


 空軍の目標が私でないことはわかっていた。しかし、反射的に動いてしまった身体を止めようとは思えなかった。アラートがかかった頭は必要なたったひとつのこと、身を隠すことだけを考え、体はそのためだけに動いた。震えながら動いたあとは、微動だにしなかった。壊れた家屋にわずかに残っていた屋根の下、飛行音が南へ通り過ぎるのを待った。落ちるわけがないと知っていながらそれでもいちばん恐れていた爆弾は、結局落ちてこなかった。

 音がしなくなってからもしばらく待った。そのあとで、やっと私は廃墟から体を引きずりだした。まわりは砂と残骸しかない開けた土地だった。遠くに人のような影が見えた。影は次第に近づいてきて、それが大人の男だということが分かった。男は私に向かってきているようだった。接近を歓迎したいわけではなかったが、どちらにせよ、こんなに見晴らしの良い土地ではおたがいを見失うことはできない。私がなにをしたって早いか遅いかの違いにしかならない。だから、彼がやってくるまで動かずに待っていた。

「こんにちは」

 私から先に声をかけた。男はそれに答えるように手を挙げ、遅れて言った。「やあ」なれなれしいというよりは、ひさしぶりに声を出したので、力の加減がよくわかってないような響きだった。私は彼が私を通り過ぎていくのを待ったが、彼はあるくペースを徐々にゆるめて、すこしすれ違ったところで止まった。彼はこちらを見たが、なにも言わなかった。

「市場を探しているんだけど」

 しかたなく、私から声をかけた。市場が南にあるということは知っていて、その記憶を頼りにここまで歩き続けてはいたが、詳しい場所はわからなかったし、場所を知っていたとしても、爆撃でなにもかもが平らになってしまったいま、もういちどたどり着くことができるのか、自信はなかった。

「市場ならここだよ」

 男は両手を広げて言った。「ただ、ちょっと前に爆弾を仕入れすぎちゃったみたいでね」

 私が黙っていると、男は話題を変えた。「市場になにをしに行くつもりなんだ?」男は私の持っているトートバッグに目を落とした。視線からバッグを守るのは、警戒が見えすぎていて不自然になると思った。かわりに、心のなかだけで注意を払った。

「食べるものを買おうと思っているよ。……あと、あればおしゃれな食器もね」
「長いあいだ食べていないのか?」
「そうね。……一週間くらい」
「しかし、……気の毒なことを言うが、市場に行っても食べ物が手に入る保証はないぜ? 心が優しいか馬鹿な商人がいる必要があるし、もっと大事なのは食べ物と交換できるようななにかをお嬢さんが持っているかどうかだ」
「なにかって?」
「靴とか、刃物とか、……酒か煙草だ」
「煙草はないけど、卵ならあるんだよ」

 沈んでいく太陽の光が彼の背中を突きぬけてきた。私は彼を信用して、トートの中身を見せた。「ぴったり17個、卵があるんだ。これなら、だれかがきっと交換してくれる」

 「どっちみち、こんな視界のいい場所では、離れて歩くほうがナンセンスだろう」彼はそう言って、市場を探す私の旅に同行してくれることになった。私にも異論はなかった。どっちみち、こんな土地ではいっしょにいることはどちらかひとりの同意だけで充分だ。やがて陽が落ち、私は空腹を抱えて寝転んだ。土台だけが残った石造りの建物のそばだった。彼は眠らずに、夜のあいだずっと立っていた。私を夜の話し相手につきあわせるようなことも、朝自然に目覚めるより早く起こすこともなかった。文句を言うこともなく孤独に耐えている彼に好感を持った。

 その好感が後押しをひとつした。旅のなかのある日の夜、眠るまえに、私は彼に冗談を言った。「君は眠らないの?」彼ははじめて不快な顔をして言う。「ゴーストは眠れない。知っていていて言ってるんだろう?」

 私は眠りの姿勢になり、そのまま眠気に抗ってすこし待った。ゴーストはひとり語りをはじめたが、私が起きていることに気づいてからは口調に問いかけが混じった。その問いかけに私が答えると、それからは会話になった。

「初めてだよ。ゴーストになった人間を見たのは」
「俺は自分がなるまえに、なんどか見たよ」
「どんな人たちだった?」
「見ただけで、会話はしていない」
「君はどれくらいゴーストなの?」
「数えてないが、長いあいだずっとこんなだよ。なにも変わらない」
「ゴーストになるっているのはどんな気分なの?」
「いまのお前から、感覚と意志と思考、そして感情を引いた存在を思い浮かべてくれよ。だいたいそれであってるから」
「正直、うらやましく聞こえるな。いま感じている空腹を感じないですむんだったら、私はどんなことでもするだろう」
「なら先輩として教えてやれる。お前みたいに生きているやつなら誰でもゴーストになれる。簡単だ。爆撃で殺してもらえばいい」
「前、私も死にかけた。ここよりもずっと北のほうで」
「もういちど試せ。爆撃機の音がしたら、手を振ってアピールするんだ。大きくな、じゃないとコックピットからは見えない。もし生き残りがいるってわかったら、空軍は爆弾を落としてくるかもしれない。ゴーストになる可能性があるのは、爆撃で死んだやつだけだ」
「私の家族もみんな爆撃で死んだ。だれひとりゴーストにはならなかったけど」
「確率の問題だよ。なるときとならないときがある。それに、ゴーストにならないのなら普通に死ぬだけだ。そっちも同じだろ? ……おなじく、感覚も意志も思考も、感情もない」
「でも君に悪いね。もし本当に爆撃が来たら、君まで巻き添えにしてしまう」
「巻き添え? 勘違いをしているな。……どんな生き物でも、二度は死ねないよ」

 旅の最後の日の朝、私は立ち上がることができなかった。膝を立てることはできたけど、それだけだった。空腹を通り越して、吐き気がした。偽物の吐き気だ。私を見下ろして、ゴーストが言った。「悔しがってもしかたないさ。飲まず食わずにしては、よく持ったほうだ」私はかすれる声で答えた。「黙れよ」

 おそらく私の人生で最後になるだろう願いを、彼は聞き届けず、喋りつづけた。「これでいいんだよ」そういえば、彼には感情も意志もないんだったな。「このまま死ねば、すくなくとも、ゴーストなんかにはならずに済む」

 私は目を閉じた。引き込まれるような脱力感に包まれた、なにもない黒い空間だけの夢を見て、もういちど目を開けたとき、まだ彼は私を見下ろしたままだった。どうやら、私の死を見届けるつもりらしい。私は「休め」と呼びかけてくる自然な欲求に抗って、まぶたを開いたまま、最後の力で保ち続けた。

「ひとつだけ疑問なのは」
「……」
「どうして、自分で持っているその卵を割って食べなかったのか、だよな」
「思考、……できてるじゃん。ゴーストのくせに」
「たまたまだよ」
「……割ってたしかめたら、いいさ」

 どのみち私にはもう必要のない物だった。視線でトートを指さす。ゴーストは私を見下ろす体勢を離れ、トートに手をかけた。中からひとつずつくるまれた卵を取り出した。そのひとつを割った。

 私は昔、北にあるちいさな農場で暮らしていた。さらに北から空軍がやってくるようになって、北から順に都市や村が焼けていったときも、私たちの家族は大丈夫だと信じていた。信じる理由があったわけではないが、信じること以外に解決策はなかった。そして私たちの順番が来た。

「なるほど、これはがっかりだな」

 燃え残った鶏小屋から奇跡的に卵を見つけ出したとき、すでに空腹で、生きたいと願っていた私は彼とおなじ落胆を味わった。口をつけてすする寸前になにかが違うことに気づいた。彼のは言葉だけの落胆だろうが、私のは本物だった。まさか、卵までゴーストになるものだとは思わなかった。

「けど、考えたんだよ。見た目は卵といっしょだから、わからない。だから、騙して売りつけてやろうと思ったんだ。そしたら、食べるものが買える。だから、市場を目指してた。北から順に爆撃されているから、南にはまだ、人のいる市場が残っているんじゃないかって」
「……」
「けど、悪いことは企むものじゃないね。だからろくな死に方をしないんだ」
「悪いことか?」
「気休めはいいよ」
「気休めじゃないさ。だって、考えろよ? 騙されて卵を買ったやつも、一個割ればすぐに気づく。残っている卵で、また別のやつを騙せる。騙して売った金で、結局は自分の腹を満たせる。それで騙されたやつも、また別のやつを騙せる。ゴーストの卵は、無価値じゃない」
「そうかもね。……そして卵だけが、ひとつずつ減っていく」

 彼はまたひとりになった。このままの方向に歩き続けるのか、帰るのか、同行者をまた探すのか、当分はひとりでいるのか、なんの考えも浮かばなかった。かつての同行者の死体のそばで、なにをしたいわけでもなく、なにを感じているわけでもなかった。ひとまず歩き出し、そして戻ってきた。かがみこみ、トートバックから包まれた卵を取り出し、それらを胸に抱え、またひとときの同行者にすることにした。永遠の旅の続きを、彼は再び始めた。