ウールフはとりわけ、飛行機に夢中になり、飛行機が降り立つときのキーンという音を本物そっくりに真似した。両腕を外側にピンと伸ばし、弧を描きながら歩きまわり、飛び上がり、蹲り、這い、しまいには大事故を思わせるような一連の音を発しながら地面に倒れるのだ。それは、ぼくにはけっして真似のできないことだった。ある種の照れくささ、おそらく羞恥心あるいは無能感が、ウールフのように叫び声や身ぶりを駆使しながら遊びに夢中になるのを押しとどめたのだった。
『ウールフ、黒い湖』を読んだ。面白かった。インドネシア生まれのオランダ人、つまり植民地生まれの宗主国人というアイデンティティをもつ主人公が、ウールフという現地の友達との間に育んだ友情を振り返るお話。そのストーリー全体が、オランダとインドネシアの関係を示唆するような作りになっている。
語りはちょっと信頼できない感じで、主人公が言いよどんでいる部分、主人公の視点では十分に気づけていない部分を察して読む、という作業を読者に要求する。
バタヴィアの通りは以前より雑然としてはいたが、例えば、苦悩と老齢に醜く変わり果てた知人の顔にもやはり親しみを覚えることがあるように、ぼくにとっては馴染みのあるものだった。
自分の生まれ故郷(オランダの植民地だったインドネシア)がじつは自分のものではない(インドネシアに暮らす人々のものであり、そこに旧宗主国の人々は含まれていない)ということに気づいた当惑、というようなものをテーマにしている。時代的な制約もあって、センシティブなテーマをかなりナイーブに、感傷的に描いていて、危うさを感じないでもないが、とはいえそのあたりがこの本の読みどころなのかもしれない。
作品自体は130ページくらいで終わり、そのあとは60ページほどの長い訳者解説がつけられている。この解説がけっこうおもしろかった。作者のセラ・S・ハーセさんは、オランダでは知らない人がいないくらい、たぶん日本で言うと太宰治くらいの名声がある作家らしい。
日常的に小説を読んでいるとたまにあることだと思うけど、じつは直前まで、共通点の多い本を読んでいた。佐野洋子*1が日本軍占領下の北京で過ごした子供時代を書いたエッセイ『北京のこども』がそれである。
ひとつの時代に共有された考え方や感傷、といったものを念頭に置いて作られている『ウールフ、黒い湖』とは違って、こちらは子供時代の個人的な体験を物語ることにフォーカスが当てられている。
*1:「100万回生きたねこ」の作者。